― 都会における効率の良さ、便利さ、刺激の強さを好む人間は、同時に自然を好み、友の暖かい心を求め、豊かな情緒を模索する人間である。

綾部 恒雄『アメリカの秘密結社』昭和45年6月 175頁より抜粋

 情報化社会とは、これまで支配的であった「モノ(物)の価値」が相対的に低くなり、「情報の価値」が高くなる社会である。情報が社会を動かす主役になる時代にわれわれはつき進んでいる。しかし、すぐれた情報をもたらすものはなにか。それは人間の頭脳である。農業社会では土地が、牧畜社会では家畜が、工業社会では資本が、基本的要素であるが、情報化社会では創造的頭脳がその発展を支配するのである。

 では、頭脳はいかなる条件のもとでより創造的でありうるのか。われわれが心をもった人間であることをやめないかぎり、それは「こころ」をもった豊かな文化のなかではぐくまれたときだと考えられる。しかし、現在、世界的な規模で進行しつつある情報化社会は、一方では創造的頭脳によって発展しながら、他方では、皮肉にも、そうした創造的頭脳を育てる「豊かな文化」を破壊しつつある。なぜなら、情報化社会は、情報が体系的に運行されることによって計画、統計、管理がおこなわれ、政治も経済も教育もすべて、高度に管理化された情報システムのなかに繰りこまれ、そこに働くひとびとは、機械に従属するかたちで主体性を失ってゆくからである。主体性を失った人間からは創造的文化は生まれえない。

 それでは一体、このおそろしい勢いですすむ情報化社会の進行のなかで、われわれはいかにして「こころ」を取りもどすことができるのだろうか。アメリカにおける秘密結社の凋落とクラブの興隆の意味するものを考えながら、わたしの内部にしだいに定着してきた考えがある。それは「ふるさと」という言葉でしか表現できない人間の「こころ」の拠りどころである。おそらく「ふるさと」の問題は、情報化社会を意識するしないはベつとして、現代の重要な問題になりつつあるにちがいない。

 鈴木光男氏はつぎのようにいう。

「……ふるさとを失って、都市にやって来た現代の市民は、そこで何か新しいものを生み出そうとして、生み出し得ない苦悩の中にあえいでいる。彼らには、もはや帰るべきふるさとはなく、都市の中でしか住めない。しかし、そこにはまだ彼らの心を育むものは何ものも作り出されていない。

 地縁・血縁から解放され、ふるさとを失って、個となった個人は、都市に出て来て、そこで、いやおうなしに、多量の情報の渦に巻きこまれる。彼らは、莫大な情報の中から、自分の好む情報のみを、ばらばらに受け入れてゆく。好みに合わない情報は受け入れられず拒否される。何が基本的なものなのか、何が共通のものとして受け入れなければならないのか、そのような判断の手がかりさえも失われる。

 このようにして、個人はますます個となる。個人そのものまでもが、さらに解体する。そこでは統一された人格としての個人というものは存在しなくなる。

 情報という大風に吹かれて、風化して解体してゆく岩石のように、人間そのものが風化してゆく。風化した人間は、個性的というよりは没個性的な一粒の砂と化する。」

 遠くに消えたふるさとは恋しいけれども、すでに崩壊したふるさとを、われわれは復元することはできない。大都会にある県人会もそれにとって代ることはできないだろう。進行しつつある情報化社会で、われわれがなしうることは、「こころ」をもった、どのような創造的連帯が可能かを考えることである。きたるべき情報化社会は、情報の渦と同時に、さまざまな結社やクラブを生みだすだろう。そうした結社が、どのように人間性を支えてゆくかが今後のもっとも重要な課題である。

 ただし、人間性とは、言うはやすくして掴みにくい対象である。ふるさとをなっかしんで盆暮に帰郷するひとびとも、ふるさとにとどまろうとはしない。これにはもちろん生活の問題がからんではいよう。しかし、都会における効率の良さ、便利さ、刺激の強さを好む人間は、同時に自然を好み、友の暖かい心を求め、豊かな情緒を模索する人間である。

 現代は、民族や国家の利害をこえて、人類全体の存立を考えてゆかねばならぬときであるということがしばしばロにされる。それはたしかにそのとおりである。しかし、そうしてでき上った文化が、効率だけのよい無色透明な、「こころ」のない大組織の集合によってしかになわれていないならば、それはまさにコンビューターに奉仕するための組織であり文化であって、人類の将来は滅亡への道をたどるほかはあるまい。コンピューターによってもたらされるユートピア、すなわちコンビュートビアを味わうまえに、これを味わうべき頭脳は枯渇しているかもしれない。

(抜粋  綾部 恒雄『アメリカの秘密結社』昭和45年6月 175頁 )